未だに、面白くない人間には価値がないという呪いの中にいる気がする。でも見えてた世界が絶対じゃないって思えたこと


一方で、ただの人間が舞台にいるだけで演劇的に面白いかと言われたら面白くないということはそうであり、やはり見せ物にすることは大切であると思うし、でもそのための方法は色々あるということ(これだ)、劇研的な、例えば唐十郎的な、身体だけが、「舞台上の身体」でないこと!

(五反田団が部屋で練習してたから会話サイズが日常サイズになったみたいな話とか面白かった)


あ〜私この光景が好きだったんだ、舞台上の彼らを観ていて、死にたくなって苦しくなって憧れてどうしようもなくなるような、そういう感情にずっと動かされてたんだって思い出した。それがすごくありがたかった。

(そうすると、私は演劇が好きなのか舞台上の好きな人間たちが好きなのか、でもやっぱり演劇は好きだよ、だっておもろいもん。でも後者ってなんかまた違う気がする、そういう何か自分の中から湧き上がってくるようなそういう感情、最近全然出会えてなかった気がする、)


彼らが良いとされるとき、でも私にだって良さはあり、それはあるいつかのどこかのタイミングでは評価されないものだとしても、全ての世界で完全に価値がないというわけではない、ということがやっぱりまだ分からずにいる

だから、あの人の作品を見る時に、あの人へのなれなさに死にたくなることがついてきて、そして演劇を好きでいることも、全てが許されていない気がしていて、


そういう意味で今回は、これは彼や彼らの作品であり、彼の価値観において良いものであるということ、その前提で、自分と彼らを切り離して自由に見ることができて、その意味で楽に良いと思えた気がした。

彼らには彼らの良さがあり、彼らと比べて(ある基準において)できない私が否定されているわけではないこと、苦しむ必要はないこと、そういう意味で、彼らの評価基準で「良いね」と言えること。そういうことで良かった。

これが全てでない、ということが分かることって大きい。世界には、平田オリザも、太田省吾も、藤田貴大も、石崎竜史も、卓卓も、色々な演劇がある。ガチ素晴らしい、マジで、本当に、こういうのが幸せだと思う。世界が開けること。岡田利規も希望だ。タニノクロウは変だ、気になる。いやでもかなり希望だ。絵とかレイアウト?とか直の演劇からじゃなくてもいい、ということ。

そして、野田秀樹は、もうおじさんだ、面白いけど。ちゃんと。でもちょっと古い。でも、昔の人たちの中では圧倒的に面白いと思う。でも野田秀樹だけが全てじゃない。世界の広さは素晴らしい。そしてそう思ってしまうことは別におかしいことじゃない。

おじさんで面白いのって三谷幸喜野田秀樹くらいな気がする(私にとって、ね、)大体悲しくなってしまう、おじさん達がおじさん達で、ターゲットに入ってないと感じる。そういうおじさん達の文化で育ってないからかもだけど

だから、自分がAだと思うことはおかしいことじゃないと思えること、それってとても素敵でとても希望でとても幸せなことだ。0305